【連載コラム】動物実験見聞記(16) AVA-net News No.146
橋爪 竹一郎(宝塚造形芸術大学教授・元朝日新聞論説委員)
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犬猫の「安楽死」論争
犬猫の『安楽死』に敏感になった時期がある。2つのコラムを新聞に書いた。
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ペットを安楽死させて帰国する外国人のけじめ
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「ペットのイヌやネコの安楽死を依頼する外国人がいるそうだ。 異国での1人暮らしの孤独を癒そうと、ペットを飼っていたが、ビザが切れて帰国せねばならない。泣く泣く別れを告げて、獣医に駆け込んでくるという。
実はいま、我が家も野良ネコの処遇をめぐって悩んでいる。近所の社宅にネコ好きの奥さんがいた。捨てネコをみつけると、かわいそうで拾ってきてしまう。壮年1・若年2の、あわせて2匹がすみついていた。
ある日、壮年の方がいなくなった。代わりに2匹の子ネコが「調達」されてきた。
〈大きいほうはもう自活できる。だから山に捨てた。子ネコは自活できないから、大きくなるまで養う〉と奥さんの説明だ。1年前のことである。
この夏、社宅が取り壊されるとことになった。奥さん一家は2匹の子ネコとともに転居し、あとに若年の2匹だけが残された。自活できると判断されたのだろう。
やがて、1匹はどこかへ去ったが、愛嬌のない、愚鈍そうなのがいまだに近所をうろついている。そいつがわが家の庭をうかがうのだ。わが家にも元野良ネコが2匹いる。最初のころ、一緒にエサをやっていたが、だんだん心配になってくる。ヘンな病気など移さないだろうか。
わが家のネコは人間の寝床にも入ってくる。家人は日に何回となく、丹念にからだを洗ってやる。といって、いまさら3匹も飼う余力はない。差別はよくないことかもしれないが。
ネコぎらいの隣家の主人は「中途半端にエサをやるのが一番いかん。面倒みなかったら、よそのネコはどこかへいく。それがみんなの幸せだ」と力説する。
この1週間、実行してみた。愛嬌のないそのノラは晩秋の雨を路上の車の下でしのぎ、吠えられながらイヌのエサを失敬している。気にするな、どんなことがあってもエサをやるな、そのうちどこかへ去っていく、と自分に言い聞かせながら胸がうずく。
同時に、決して豊かでないはずの外国人労働者が、ポケットマネーをはたいてペットを安楽死させていった、けじめのつけかたに感心する。」
このコラムに読者からいろいろな批判が寄せられた。安楽死についてボクはそれほど深く考えていたわけでない。〈豊かでない外国人が多くの日本人のように無責任に放置したり、捨てたりせずに、また、最期を見届けないで保健所任せにしたりせずに、自分のお金を使って苦痛の少ない旅立ちをさせている〉―そのことにちょっと感動したのだった。
立場を変えてボクが外国で短期滞在して帰国するような場合、その地で知り合った猫を連れてくるだろうか。自信がない。まあ、そんな程度で書いたのだが、気軽すぎたかもしれない。
ただ、ボクにも多少のこだわりがあり、2つめのコラムを書いた。
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捨て猫・ノラ猫たちのハッピー度の順位
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「外国人労働者が帰国するとき、飼いネコを安楽死させたけじめのことをこの欄に書いたら、たくさんの人からお便りをいただいた。多かったのは『それはけじめでない。人間の身勝手な許せぬ行為』というお叱りである。
もっともだと思う面もある。だが、私が目撃したつぎの光景はどう考えればいいのだろう。
通勤途中の小さな畑のそばにネコたちが日なたぼっこをする空き地がある。付近はアパートの密集地。半年ほど前から子ネコが群がるようになった。7〜8匹はいる。
先日、通りかかると「エサをやらないで。たいへん迷惑しています」と大きな張り紙。その翌日、応酬するように「ネコを放し飼いにしないで」と丸っこい少女字体。さらに3日目、「野良ネコです。エサをやらないで」とだめ押しの警告が出た。
張り紙合戦はこれで終わり、空き地には金網が張られた。ネコのたむろする姿はない。ゴミ収集日など、子ネコたちはビニール袋の山にしがみついたり、通行人のあとをつけたり…。
このネコたちが、これからたどるであろう運命をハッピー順に予測すると、@人間に飼われるA野良ネコとして寿命をまっとうするB飢えや寒さで野垂れ死にするC行政機関のガス室などで処分されるD実験動物用に大学や研究所に払い下げられる、などだ。
飼われるのが最高だとしても、ネコの繁殖率、都会の住居事情などを勘案すると、ほんの一握りに違いない。ほとんどは人間社会の中で邪魔なノラ猫として飢え、凍え、逃げまどいながら、不幸な生涯を終えるのだ。
藤沢市の小学生恭子ちゃんは「捨てネコを7匹も飼っています。これ以上はパパが許してくれません。かわいそうな野良ネコちゃんに」と便りにエサ代を同封してきた。
人手を離れたネコたちの前途は厳しい。動物愛護団体の人たちから実情を聞くと、心が暗くなる。去勢・避妊手術は飼い主の最低限のルールだと改めて痛感する。
そして、やむなく別れるときは、出会ったときと同じ情熱を込めて納得のいくサヨナラをしたい。それがペットと共存する道だ。」
このコラムにも読者からの反響が絶えず、とうとう週刊誌が取り上げた。
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ペットの安楽死は許されるか
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週刊誌のタイトルは「議論沸騰 イヌ・ネコ ペットの安楽死は許されるか」で、前半部分は次のような記事になっていた。
「安らかな死を願う人に、死期を引き延ばす医療措置は必要じゃないとする安楽死、尊厳死をめぐる論議が活発になっているが、最近は、人だけでなくペットに関しても安楽死論争が起きている。人の身勝手で殺されるイヌやネコの身にもなってみろ、ということだろう。だが、それこそ真の愛情表現という声もあがっているのだ。
外国人労働者が一人暮らしの孤独を癒そうとして飼っていたイヌやネコを、帰国するとき泣く泣く安楽死させている、という記事が新聞に載った。筆者は、「決して豊かでないはずの外国人労働者が、ポケットマネーをはたいてペットを安楽死させていった、けじめのつけかたに感心する」と結んだ。ところが、この記事について、読者の反響は大きく、投書が論殺到した。
『怒りを抑えきれず初めてお便りします』と書き出した女性は、次のような意見を送ってきた。
『動物を安楽死させる事がなぜ〈けじめ〉なのか。そもそも健康な動物を殺してしまうのに、安楽死という言葉自体おかしい。さらにその行為に〈感心する〉とは一体どういうことなのか。
野良ネコの処遇に筆者自身悩んでいるのでペットを野良にするぐらいなら、殺してくれたほうが人に迷惑をかけないということだろうか。
何と人間本位の考え方だろう。〈一人暮らしの孤独を癒そうと〉、ただ慰みものにして、帰国するとなったらお払い箱にするとは勝手過ぎる。ペットは99%飼い主より先に死ぬ。動物と一緒に暮らすということは、その死も含んでいるのだ。
天寿を全うするまで見届けるのが、飼い主の義務ではないか。そんな当たり前のことがわからない人に〈感心する〉だなんて、どうかしている』
大半がこのような内容だった。ほかに去勢・避妊手術の必要性を強調した投書もあった。」
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やむを得ないという是認派も少なくないが…
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そのうえで、安楽死論争は投書とは別に結構歴史が古く、認めるのもやむをえないという是認派も少なくないとして、日本ペットコンサルタント協会会長で動物病院院長を務める岩元照男さんの「いちがいには割り切れない。ケースバイケースだ」といったコメントが続いていた。新聞社やボク個人宛に届いたお便りも、ほとんどが安楽死を否定するご意見だった。おもなものを要約して紹介する。
「ヘンなの。なけなしのポケットマネーで安楽死の外人さんに感心しているヘンな人。いつまでたっても人間は自分の側からしかものが見えない。地球をここまで追い詰めたのもそこなんだ。中途半端にエサをやるからとはヘンな言い方。面倒みなかったらどこかへいくとはヘンな言い方。自分の見えないところに悲しみを追いやるヘンな考え方。どんどんどこかへ行ってどこかで死んでくれればよいというのか。
私は動物に対して好きとか、嫌いとかの真顔者に腹が立つ。よけいなお世話だ。「生きとし、生けるもの」である。」
斜めに構えた書き方だが、「生きとし生けるもの」を願う心情は伝わってくる。ただし、人間側の一方的な不法、身勝手、残虐な行為が「生きとし生きるもの」をそのままには置かない現状をどこまでご存知なのだろうか。斜めから唱え、願うだけでは現実は変わらない。そこにボランティアの人たちの真正面からの苦闘の意味があるのだ。
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中途半端は飼い主の身勝手
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次は身近な取り組みで、「生きとし生けるもの」のあり方を考えておられる1例。
「筆者の方、心やさしき方と思いますが、異議あり、一筆。
以前、庭に来るヤマガラを私の手の上のピーナッツをもらいに来るまでに馴らしたところ、まもなくばったり姿を見せなくなりました.人間に馴れすぎ捕えられたのかもしれないと痛く反省。以降、大雪でも降らぬ限りパンなどの撒き餌もやめ、実のなる木を植えるだけにしました。労せずして安易に餌がとれるということも良いことでないと思ったからです。
勤めをやめ、一日中家に居られるようになり、子供のころから久しく縁のなかった犬を飼い始め、昨年15年5か月で死にました。1か月、しっかりつきっきりで看取ってやり、庭に埋めました。新しく飼うように勧められますが、これから15年後にはこの犬のように十分な面倒を看てやれませんので飼うつもりはありません。
ビザの期限が切れることがわかっていながら、淋しさをまぎらわすため、犬や猫を飼うのは身勝手です。ノラにせず、安楽死させるのはせめてもの良心でしょうが、人間の都合で彼らの生き方を左右するのはかわいそうです。子どもにせがまれて一時の興味で飼い、飽きると野良犬、野良猫同然の扱いをする人が多いのも困りますが、中途半端な同情心もかえって、犬や猫、鳥などにとってはためにならないと思います。
わが家の犬は満足して死んだとおもいますが、心残りは、不妊手術をしたことです。生まれた子犬を全員幸せに育てる自信がなかったので、そうしましたが、人権ならぬ犬権をほんとうに満たしてやれたのか、神様からもらった命を私の都合でゆがめたのでないかと今でも心にひっかかっています。」
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