【連載コラム】動物実験見聞記(11) AVA-net News No.141
橋爪 竹一郎(宝塚造形芸術大学教授・元朝日新聞論説委員)
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「毛皮が日本人に必要なわけ」はない
―山田太一さんにうかがいたいこと
悲惨な動物実験も、ノラをめぐるボランティア同士の内輪揉めも、口論、仲違いなどともいっさい無縁で、みなさんが一様に明るく仲良くハッピーな動物愛護の風景もある。
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過保護のペット、シンデレラのような元野良猫だけが登場
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先日、猫を専門にした月刊新聞をとってくれ、と頼まれて購読しているが、そこに登場する猫は過保護のペットちゃんか、優しい飼い主に拾われたシンデレラのような元ノラ猫か、住民に愛され定期的なエサに恵まれているラッキーなノラ猫たちである。ときどき文学作品上の抽象的な猫もお目見えするが、むろん、食べ物に困らないし、捨てられないし、実験用に切り刻まれることもない。ハッピーな猫たちと猫好きの人たちが笑顔と優しさを交換し合っている。
別の日、一般の大手新聞を見ると、「のらねこ」とか、「くるねこ」という題名の本の広告が出ている。そこには、「捨てられた猫たちの命の輝きを写真と文章でつづる感動の物語」「そりゃあ笑えます」といったキャッチフレーズが躍っている。
なにも猫と楽しくするのが悪いと目を三角にしているのでない、笑い合っていいのだ。動物好きの人はとにかく心優しい人たちに違いない。動物はすさんだ人間社会の癒しになることもわかっている。
ただ言いたいのは、ここには私らがふだん付き合っている飢えと寒さで生死の境をさまよったり、虐待されたり、捨てられたりして、結局は無残に旅立っていくノラたちは姿をみせない。麻酔なしで痛みの実験をされたり、脳に電極を突き刺され死ぬまで眠ることのできない実験用の猫なども存在しない。ガス室で苦悶しながら殺処分される粗大ゴミのような猫も登場しない。
ケチをつける気はないが、この世にはこんな悲惨な猫も存在することを心優しい猫好きの読者のみなさんも知っておいてくださいね。ハッピーな猫よりも悲惨な猫のほうが圧倒的に多数派であることを。
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保護活動の人々が取り組むのは、最低辺を苦悶する動物たち
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そして私は改めておもうのだ。動物保護のボランティアのみなさんが、しばしば内輪揉めし、仲違いするのは、恵まれた動物たちでなく、最底辺を苦悶しながらうごめいている動物たちを救おうとする切迫した、ぎりぎりの思いに駆られていることも大きな原因なのだと。
ところで、ハッピー専門のロマン的動物愛護にしろ、悲惨な動物に向き合うリアル派の動物保護にしろ、こうした人々はいずれにせよ、動物に一歩入り込んでいる。入り方の深浅がロマンとリアルの分岐点とボクは思っているが、それはともかく両者に共通してうかがえるのは動物への一定の実感、理解のようなものである。
そんなもののまるで感じられない文章に先日出会った。人間の立場から動物を抽象的、観念的に処理して、自分では正論を吐いたつもりになっているらしい臭みが漂っている。それがボクの敬愛するシナリオ作家だったから一層ガックリときた。テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』の脚本のほか、小説家としても知られる山田太一さんの文章である。
山田さんのテレビドラマも小説も実際にはほとんど知らないが、エッセイの類は愛読している。経験と現実に裏打ちされた穏やかな日常が湛えられて私のような年配の者には沁みこんでくるものがある。ところが先日、たまたま『これからの生き方、死に方』という山田さんがホスト役の対談集を再読して唖然とする記述をみつけた。山田さん自身が書いた地の文章である。
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エスキモーと日本で毛皮の重要性は同じだろうか!?
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「いまの日本では生存に脅かされることが比較的少ないものだから、原理が無限に走ってしまうところがあると思う。ヒューマニズムなんかにしても、あれもこれも助けなくちゃいけないという方向に、どうしても行きます。『毛皮はいかん』といっても、毛皮以外に身につけるものがないような世界だったら、そんなこといっていられないから、どうしたってリアルになりますね。(略)現時点でも、ずいぶん多くのものを、植物を含めて、殺さなければ生きていけないという現実の中で生きているわけですよね。」
大人げないかもしれないが、私は、噴飯ものだ、と怒鳴りたくなった。
だいたい、「毛皮以外に身につけるものがないような世界」というのはどこを指しているのだろう。いまの日本を批評している文章なのだが、暖衣飽食、ものみなあふれる巷のどこを探したら、そんな日本を発見できるのだろうか。
それこそ現実離れのした空疎な観念論、手垢のついた安直な正論だ。
なにより山田さんはいとも心安く、気軽に、こともなげに、〈毛皮〉とおっしゃるが、その毛皮の由来をご存知なのだろうか。ネットを一瞥しただけでつぎのような記述が飛び込んでくる。
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気安く「毛皮」というなかれ、この悲惨をみよ
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「動物たちは狭い檻に詰め込まれ、身動きもままならず、神経を侵され、異常行動をはじめる。
毛皮を剥ぎ取るのに麻酔も安楽死もない。おもに心臓を殴られ、蹴られ、失神したところで、剥がしやすいように逆さ吊りされ、皮を剥がれる。
途中で目を覚ます動物も多い。全身を剥がれながらもまだ意識があり、よろよろと5分間、あるいは10分間、体を起す動物もいる」といった趣旨。
日本は世界有数の毛皮消費国で、輸入元は大半が中国だ。タヌキの皮を使った小物なども若い女性のファッションになっているが、生きたタヌキが毛皮になる過程の映像をネットでみた。
ビデオは15分だが、「辛くて長いのは見られない人のために」2分の短縮版も用意してある。「想像以上に残酷かもしれません。けれどこれが毛皮生産の実態です。中国河北省で撮影されたものです」と短い説明がついている。
私は恐ろしくて2分用を半分ほどみて停止した。上記の説明文を映像でなぞっていた。皮を剥がれた真っ赤な死骸が積み重なっている写真もあった。
山田さんはこうした毛皮の成り立ちと運命を知っていながら、〈「毛皮はいかん」といっても〉ーーと書き流したのだろうか。
ボクは行ったことがないからエスキモーなどの、厳寒の土地の人々の事情は知らない。しかし、この文章の読み手はエスキモーの人を想定していない。暖衣飽食の日本人向けの本である。
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暖衣飽食の日本は毛皮の「大消費国」、「輸入大国」
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単なる「たとえ、比喩」じゃないか、というなかれ。日本は暖衣飽食に加えて、世界有数の毛皮消費国であり、世界有数の動物実験国であり、残酷な実験ぶりをつとに指摘され…、国際条約で禁止された獣を輸入し…。とにかくそういう方面での大国なのである。山田さんもそんな国民性に慣れているのだろうか。
地球上で、生活のため毛皮を欠かせない民族はごくごく少数だし、そういう人々は毛皮になる動物との共存を賢明にはかっている。そんな事例を私はたくさん見聞している。そういう土地では人と動物は運命共同体であり、商売やファッションのために動物の命を犠牲にすると、元も子もなくなるからだ。
山田さんは言葉遣いの専門家だ。人間の言葉は動物たちの単純なサイン、合図と違って、シグナル、象徴としての機能を持っているのが特徴だ。
たとえば「愛」という言葉ひとつをとっても、純愛、親子愛から不倫、動物愛から人類愛、さらには宇宙や環境問題のイメージをも網羅できる。こうした言葉の機能が人間の文化を育ててきた。その延長線上でいうのだが、山田さんは「毛皮」にどんなイメージを抱いて、この文章を書かれたのだろうか。
あわせて気になるのは、山田さんはどうも毛皮反対運動の人たちを視野に入れて「あまり声高に反対するんじゃないよ」とたしなめている風にみえることである。
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山田さんは毛皮生産の過程をどこまでご存知なのか?
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ご存知のうえでこのような文章を書かれたのか?
かねがね真摯な考え方、表現をされている山田さんにまさかそんなことはないと信じたい。
ご存知なく、書かれたのか?
言葉遣いのプロは言葉の大量生産、大量消費を業とされている分、かえってこのような言葉の無造作な乱費、初歩的なミスを犯すことがままあるものかもしれない。
それを承知しつつも、対象は、いのち、の問題である。山田さんのような有名人だけに影響は大きい。金儲けやファッションや、安易な「止むを得ぬ」論に加勢してほしくない。
毛皮反対運動を気軽に「事情も知らず」に、たしなめ、批判し、揶揄する印象を与えかねない言動は慎んでいただきたい。「毛皮」について、もっと調査し、熟慮し、深く書いてもらいたかった。
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