【連載コラム】動物実験見聞記(10) AVA-net News No.140
橋爪 竹一郎(宝塚造形芸術大学教授・元朝日新聞論説委員)
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せめぎ合う「科学盲信派」と「情緒過剰派」
動物実験の取材を始めて一年ほどで撤退することにした。私の神経がやわすぎた。それ以外にも、動物実験に向き合う人々の姿勢が極端にかけ離れて、なかには尋常でないとおぼしき人も少なくなかった。動物をまるで石ころか何か鉱物のようにみなして科学する人、その正義を無条件で信じる支持者。一方でどんな妥協も認めず、内輪もめを繰り返す愛護派のみなさん。私も記事を書くたびにささいなことで抗議電話にさらされた。私が最後に書いた動物関連の記事は、野上ふさ子さんの『動物実験を考える』についてだった。この連載三回めに引用した『新・動物実験を考える』(三一書房)の旧著である。
本の内容を判断する能力は私にはなかったが、小さな新書版から伝わってくる著者の執念と気迫と抱負の大きさにうたれた。私のように一時的な感情の高ぶりから動物保護に関心を持つ人はけっこう多いだろうが、思わぬ障害に立ち往生し、撤退する人も多いに違いない。読んだ印象を私は正直に記事にした。
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動物実験…静かな戦いに挑む女性
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「私はとくにやさしい人間ではないが、『動物実験』のことを知ったときは一ヶ月ほど世の中が暗くなった。酒を飲んでも、山に登っても、心がふさいだ。うぶな少女ではない、百戦錬磨といっていい五十男が打ちのめされたのである。
一匹の子羊、救われぬ人たちに身をなげうったキリストさん、おしゃかさんの深いかなしみが一瞬、見えたと思った。結局、臆病な私は真実にフタをし、見て見ぬふりをすることで、以前の快活な日々を取り戻したのだが。
野上ふさ子さんは逃げなかった。現場を歩き、世界各国の文献や資料を集め、仲間を募り、大学、研究所、メーカーに挑み、病院に押しかけ、役所にかけ合った。その七年間が『動物実験を考える』(三一新書)という一冊の本にまとまった。
< 動物保護>というと、私は感情過多、局部的、絶叫、非科学的、エゴ、といったものを連想してしまう。本書にはそれがない。動物実験の残酷さ、無意味さが感情でなく事実で、それも声高にではなく、低い声で語られている。
例えば、日本法医学雑誌に図付きで掲載されたリポートの引用がある。
『子豚三頭に暴れない程度のかるい麻酔をかけ、その胸を小石を握った拳で激しく殴り、障害の発生程度を記録する。殴打速度の最大値で肋骨が折れ、重大な肺の損傷が生じた。殴打速度が高いほど損傷が大きいという結果が得られた』。ただし、『ヒト幼児の胸部の変形挙動を見当するに当たって子豚の実験データをたとえ体重が等しくともそのまま適用することには困難がある』
このほか、25頭のイヌについて、どのくらい酸素を欠乏させると窒息死するか、といった例など、もっともらしくもアホらしい実験の数々が紹介される。そのあと『動物の命を粗末にしないため実験の事前審査制度を』と野上さんは静かに説く。
動物保護関係者をまじえた事前審査制度も、動物実験所への立ち入り検査も、すでに欧米諸国で実施されていることだ。
以前、猫の脳の表面を空気にさらして浮腫をつくった日本の論文が残酷すぎると米国の脳神経外科雑誌に掲載を拒否された例などと重ね合わせて、日本の動物実験の野蛮さ、マナーの悪さ、倫理のなさがしみじみと悲しくなる。これほど日本の無知と後進性を残している分野も珍しいのではないか。
『動物実験は科学・医学の進歩に欠かせない』という研究者たちの重々しい説明に、私たちの反応はふたつに大別される。それをうのみにする科学盲信派、または悲鳴、絶叫、感情過多で立ち向かう情緒過剰派である。
どの派の人にとっても、本書から得るものは大きいはずだ。それは動物実験を考えることは、真実を見極めること、人生を考えることに通じるからであろう。」
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科学を盲信するのは間違っている3つの理由
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これを書いた気持はいまもかわらない。動物実験は〈科学〉と〈情緒〉が敵対し、せめぎあう典型的なテーマのひとつだろう。両派についてコメントしておきたい。
動物実験に関して科学・科学者を盲信するのはなぜ間違っているのか。少々理屈っぽいが私の考えはつぎの3点だ。
1、もともと科学とは、その時点で決定的なものでなく、つねに訂正を繰り返しながら少しずつ進歩している。それは科学の歴史をみれば明らかだ。歴史に名を残す科学者たちはすべてそれまでの学説やありかたに疑問を持ち、乗り越えていった。彼らもまたいずれ乗り越えられるべき運命にある。たとえば西洋科学の粋は数学であり、その中心は2000年にわたってユークリッド幾何学だった。これが唯一の永久不変の真理とされ、ニュートン力学もカント哲学も基礎にユークリッド幾何学を置いていた。それが19世紀になって別の新しい幾何学が相次いで登場し、20世紀にはニュートン力学はアインシュタインの相対性理論、ノイマンやボーアらの量子力学によって否定されることになった。科学(むろん医学を含む)はあくまでその時点での「ひとつの見方・考え方」にすぎない。このことを実験当事者も一般市民も肝に銘じておこう。科学の旗にひれ伏し、問答無用で動物実験を認めるのはアホです。
2、現代のような大衆・情報社会では、それぞれが専門化し、自分の専門以外は「みんなが素人」の時代とされている。科学者はとりわけ「専門バカ」の多い職種といわれていますね。近代科学の手法は複雑なものを単純に細分化し、個を積み上げる方式だ。その間に実に多くのものを発見したが、同時に実に多くのものを見えにくくした、と多くの思想家・哲学者は指摘している。いま世界的に問われているのは「関係性・つながりの回復」だ。私たち人間も実験される動物たちも、同じ生命の源から誕生してきたことをもう一度かみしめたい。そこから動物実験のあり方もまさに素人の立場でチェックすることが大切なのだ。素人こそが科学の盲点を明らかにすることができるのです。
3、科学の目的は何か。いうまでもなく人間の生活や精神に奉仕するものだ。人間と別個に科学が存在しているのでない。人間が主人公なのだ。動物実験の悲惨をよしとする人はいないだろう。だからこそ、動物を使わない「科学的代替法」が欧米を中心にどんどん広がっているのだ。従来の動物実験の考え方にいつまでもしがみついているのは、時代遅れ、臆病、いや、科学本来の発想、姿勢からすれば、むしろ因習にとらわれた非科学的な態度だと言い換えてもよいでしょう。
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ささいな差異が許せない。自分の想像図にこだわる。全体状況が見えない。
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つぎに情緒過剰派について。私もこのグループに入ると思う。全体状況がみえない。くよくよ悩む。いたずらに悲しむ。そして当面の解決へ向けての道筋がつかめない。いらだちと、立ち往生がいつまでも続く。
哲学者の三木清が『人生論ノート』のなかで「嫉妬がつらいのは、疑惑の極大と極小の間を振り子のように想像・妄想が往復運動をするからだ」という趣旨のことを書いていた。
彼女にはボク以外に男がいるに違いない、いや、彼女は結局、ボクだけを愛してくれているのだ。真実のところはわからない。心はそのときどきのムードに応じて不毛のピストン運転を繰り返しながら、消耗し疲弊する。
人の心や情緒は不定形だ。とりわけ動物保護でがんばっている人たちは心優しく、デリケートで感受性の強い人が多い。
この人たちの前景に広がる見えない光景??それは密室で、切り刻まれ、各種の悲惨な行為を受けながら悶死していく、物言えぬ動物たちの姿なのだ。
ひとり一人がつい神経質になり、いらだち、それぞれの悲惨のイメージと救済の手立てを描く。その思いが強いから、自分の想像図と手法にこだわる。ちょっとしたやりかたや解釈の違いも許せず、内ゲバを繰り返す。かつての過激派学生集団に似ている。よく言えば、純粋すぎて個に固執し、大同団結が苦手なのだ。
私が動物実験や安楽死の問題を記事に書いたころ、新聞社には活動家のみなさんの抗議電話が殺到した。ボクだって動物のために一役買っているつもりなのに、ボクの記事が糾弾されるのだ。自分のケースとここが違う、あそこが違う、という指摘である。
全員が同一規定のハートを持っているわけじゃないし、同じ経験をしているわけでもない。まあ大きな意味で同じ方向を向いておればいいじゃありませんか、といってもわずかな差異・誤差にこだわり、受話器を下ろしてくださらない。最長2時間という例もあった。こちらも途中からやりかえし、結局はけんか別れ、というアンラッキーな結末はせつなかった。
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大きな優しさ 小さな優しさ
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以前、老人ホームで聞いた話。
学校を出て、福祉を志し、喜び勇んで赴任した新人たちだが、やめていくケースも多い。仕事がきついから? 老人が性に合わないから? 汚い? 月給が安い???いずれもノーだ。そんなことははじめから承知の上で就職している。
では、なぜ?
みんな優しい気持ちは持っているが、長続きしない人の優しさは、小さな優しさだという。例えばホームで決められたスケジュールは満杯だ。その枠の中へ、入居者から私用を頼まれたとする。それを優先すると、本来の仕事が残ってしまう。あるいは入居者の私用を後回しにすると、それが翌日に残る。
いずれにせよ時間が限られているのだから、どちらかの仕事が積み残しになる。そんな繰り返しが、やがて無力感と自己嫌悪と罪悪感になって積み重なり、耐えられなくなるというのだ。
大きな優しさとは、まず、老人に「いまはできないから」とはっきり断る勇気を持つ。
あるいは、この際、ホームの仕事を後回しにしてもいいという判断能力を持つこと。あれもこれも、はできないのだから、思い切ってどちらかを捨てる。より大きなもののために、小さなものは捨てる。それのできる人が長続きするのだそうだ。
そんな大きな優しさを動物保護活動の人たちにもぜひ持ってほしいと思う。これはボク自身への自戒を込めたお願いだ。
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