動物の権利を求め憲法改正へ
今年、4月13日、ドイツ議会では動物の法的権利を認めることになったであろう憲法修正案が、ほんのわずかの差で否決された。修正案は憲法上、現行法で保証されている科学研究の自由に匹敵する権利を動物に与えるもので、これが可決されていれば、動物実験に反対する側に強力な法的武器を与え、ドイツでの生物医学研究に多大な影響を及ぼすものであった。
憲法修正に必要な3分の2以上には満たなかったものの、過半数の議員がこの修正案に賛成票を投じた。
同様のことが2年前、スイスで起こった。遺伝形質転換(トランスジェニック:遺伝子操作技術による遺伝子―ほとんどは異種生物のDNA―を導入することによってゲノムを部分的に変化させる)の動物実験を禁止する法案が出され、これは国民投票によって可決間違いなしと見なされていた。しかし、ぎりぎりになって一握りの著名な科学者達が、製薬業界の支援を受け、必死の反対キャンペーンを展開したために否決された。
この憲法修正案は、提出者が再度議会にかけるために必要な賛成票を得ることができれば、議会を通過する可能性もあり、もし通過すれば、修正された憲法の解釈については、法廷で論議されることになる。
動物の法的権利の確立へ
アメリカなどの国では、動物の権利運動はもっと、いままでの概念を根本から覆すようなアプローチが取られているが、長期的な戦略はどこの国でも同じで、政治における改革事項に動物の権利運動を盛り込むための一番有望な手段として、法改正のキャンペーンが活発化している。
既存の虐待防止法の枠内で動物が得ることのできる保護に対し、動物の「権利」とは具体的に何を意味するのか。
スティーヴン・ワイズというアメリカの弁護士が最近、出版した「Rattling the
Cage」(ケージを揺さぶる)という本の中でこれを明確に記述している。この本はジェ−ン・グドール博士が序文を書き、彼女をして動物版「マグナ・カルタ」であると言わしめている。生物医学研究者はこの本に注目すべきだろう。というのも、そう遠くない将来起こりそうな法廷での生物医学研究に対する法的挑戦に挑むことになれば、この本に書かれている論点に反駁する必要があるからだ。
ワイズによれば、法的には現在「物」として扱われている動物のあるもの、特に大型類人猿は、「人」として認められるべきだという。類人猿の中には手話で会話できるものがいるということを認めるかどうかはさて置き、彼らの認識能力がある種の人間(乳幼児、重度の知的障害者)のものより勝っているのは明らかだ。であるから、誘拐され、売られ、監禁され、実験されることのないよう、人間と同様の保護を受ける権利があるというのだ。
これまで、人間と他の動物の間には確固たる境界線があるとと思われていたが、現代生物学がこのような概念を過去の遺物にした今、法がこのような概念を保持し続ける理由はない。また、現存の法は、生物学上のある特定の種に適用するという概念からできたのではなく、ある特定の精神を有する種に適用するという概念からできたものであり、すべての人間を含むようこの精神を定義すれば、そこにはチンパンジー、ボノボ、そして、おそらく他の数種も含まれる、とワイズは主張する。
これは、急進的な命題であるが、ワイズは法がこのような概念に沿って修正でき、また、修正されなければならないと、初めイギリスで、のちに、アメリカで廃止になった奴隷制度との類似性についての詳細な法的議論を展開している。奴隷を解放し、彼らに憲法上の権利を与えるためには、動物の権利を認めるのと同様に社会の根本的な変革が必要であったが、その過程で法廷は決定的な役割を果たした、というのである。
ワイズは、また、人間の受ける利益が動物の犠牲を上回る場合、動物実験は正当化される、という功利主義者の見解も認めない。文明国では、本人の同意なしに人体実験を行なうことは許されない。「個人」が社会のどのような利益をも上回る絶対的な権利を有すると解釈されるからだ。ワイズは、大型類人猿にも同様の保護が与えられるべきだと考えている。
法定で争われる動物の権利
このような難題は一挙に解決できるものではない。たぶん、ひとつの事例ごとに国の様々な法のシステムを通して争われていくものなのだろう。実際、アメリカの法廷では、すでに闘いの火蓋は切られている。例えば、アメリカのある動物園で霊長類を1匹だけで飼育していたケースで、法廷は第三者がアメリカの動物福祉法に基づき、このような飼育状態を放置していた政府を告訴する権利があるという裁決を下した。また、ペットとして飼われ、通行人に噛み付いたため、その後、飼い主によって監禁状態に置かれているチンパンジーのために、動物の権利団体が、自分達をこのチンパンジーの法定保護者に任命してほしいと訴訟を起こしているが、ここで論点となっているのは、動物の利益がその飼い主によってでなく、法定保護者によって保護され得るものなのかどうかということだ。また、動物の権利活動家は法廷でだけでなく、法学の分野にもその活動範囲を広げつつある。今、アメリカでは、ハーバードを含むいくつかの名だたるロー・スクールで動物法の講座を設けており、ワイズもハーバードで教鞭をとっている。
もちろん、このような奥の深い論争は憲法上で決着をつけるのが適当だろう。しかし、同時に、これは科学者が自分達を批判する者に対して、今までよりも雄弁に立ち向かわなくてはいけないということだ。特に神経科学者はいずれ矢面に立たされることになるだろう。人間の脳のモデルとして最も研究価値のある動物は、当然のことながら、その権利を保護する理由が一番強い種だからだ。ワイズの本が提起している議論が何の影響力もないふりをするのは非生産的だ。そんなことをするより、研究界はこの議論に真っ向から立ち向かい、有効な反駁を準備すべきだろう。
ネイチャー・ニューロ・サイエンス(神経科学)6月号より