■15年前までは…
1985年頃、「実験動物に痛みはあるか」という議論がなされ、「厳密な意味では動物に痛みはない」と断言していた「権威」ある研究者がいたことを、私は今でも忘れることができません。
1990年、実験犬シロの事件があった当時のことですが、実験研究者たちのほとんどは動物の保護及び管理に関する法律(改正前の動愛法)の存在も知らなければ、同法の中に動物実験を行う場合はできる限り苦痛のない方法でしなければならないという規定があることさえ関知していませんでした。機関内に指針などあるはずもなく、倫理規定のない機関はざらでした。
この当時東京都は、都内の30もの実験機関に犬猫を実験用に払い下げていましたが、シロの扱いがあまりにずさんだったことから、払い下げ先の実験施設をすべて訪れて、飼育状況に問題があり、さらに「倫理規定のない施設には払い下げを行わない」ことにしました。その結果、ほとんどの施設には倫理規定がなかったため、払い下げ数が激減したのです。
当時は、実験委員会もなく、実験計画も必要がなく、誰もが好き勝手に動物を使って実験をすることができたということになります。実験結果を評価するのは唯一論文だけですが、それがきちんと書かれているかのチェックもなく、中味を検証する人も制度もありませんでした。わずか15年前のことです。
■15年間の変化は…
その時点から見ると、動物実験の、特に日本における現状にはかなり大きな変化があったと言えるでしょう。国公立大学では、形式的なものではあっても動物実験委員会を置き、実験計画書を審査するようになってきました。近年は、動物の受ける苦痛を判定し、極度の苦痛を与える実験を避けるように自主規制案も出されるようになってきています。動物実験代替法の研究に、まだわずかですが国が予算を出すようになっています。
さらに、2005年の動物愛護管理法の改正で、従来の苦痛の軽減義務に加えて、使用数の削減と動物を使わない方法への置き換えが配慮事項として明記されました(動物福祉の3Rの原則)。この法改正に基づき、今年、文部科学省、厚生労働省がそれぞれはじめて動物実験指針を制定し、言葉だけではあっても、「動物の愛護」が言及されることになりました。何よりも動物実験の透明性の確保や自己点検・評価および情報公開が記されたことだけでも、15年前から見れば大きな変化です。
しかし、ここで指摘したいのは、これらの変化は決して実験研究者の内部から自発的に生まれたものではないということです。「学問の自由・研究の自由」という立場からすれば、動物の福祉や3Rはわずらわしいだけであり、できれば無しで済ませたいところ、外部からやかましく言われるので仕方なく取り組むのだというのが本音でしょう。その証拠に、もし本当に実験者たちに、犠牲となる動物に心を痛め少しでも数を減らしたり代替法に置き換えようとする気持ちがあるのなら、あれほど動愛法の改正に反対し、これほど動物実験指針を骨抜きにはしなかったはずでしょう。また、国際的な法規制と比べてもほとんど実効力の期待できない指針をもって「素晴らしいものだ」と満足したりはしないでしょう。
いつの時代、どこの世界でも、社会を変えていく力は、既得権益を守ろうとする人々ではなく、不正に憤る世の中の声です。動物実験をめぐる変化はまさに国内外の世論におされて起こってきたものであることは明らかです。
■実験者たちが固執した「必要不可欠」
環境省の基準も文科省・厚労省の指針もほぼ原案通りで制定されましたが、パブリックコメント意見で私たちが特にクレームを付けたのは、「動物実験は必要不可欠」という文言でした。
動物実験を実施する側の人々にとっては、動物実験は自己の研究、知的好奇心の満足、論文の生産のために、また地位を守り出世するためにも、必要不可欠なものであることは疑いがありません。しかし、動物を使う研究などとは無縁の暮らしをしている一般の人々にとっては、動物実験は必要不可欠という主張は承認し難いものです。それどころか、動物を無意味に苦しめ傷つけ殺している行為として、できるものなら無くしていくべきものだとして認識されています。そのように考える人々が世界中に多くいるからこそ、各国で動物実験の法規制が行われてきましたし、研究者の側からもそれに応えるために3Rの原則(動物を使わない方法への置き換え、使用数の削減、苦痛の軽減)が出され、動物実験をできるだけ減らし無くしていこうという努力が双方からなされているのです。
動物実験は、やむを得ずに動物に犠牲を強いる行為であり、ある意味「必要悪」であるからこそ、少しでもその悪を減らしていこうという考えは、社会の大多数の人々の支持を得る考えです。動物実験を無条件の善であり、限りなく促進するべきだという立場は、最早現代社会では容認されることはありません。
■社会に対する自己正当化
このような社会の一般通念に対して、今回、いきなり環境省の基準、文科省、厚労省の指針は「動物実験は必要不可欠である」と宣言しました。この文言は、動物実験は悪であるという無言の圧力を感じる研究者の人々が、自己を正当化するためにどうしても入れたかった一言だったと考えられます。パブコメの結果発表によると、この一言に「大いに賛同」「高く評価」といった意見も寄せられているとのことです。これで自分たちがやっている動物実験に国家から「お墨付き」が与えられたとでも、勘違いしているのかもしれません。
■国民に対する説明責任
動物実験が必要不可欠であると断言した以上は、国はすべての動物実験を洗い出し、それがいかに必要不可欠であったかを国民に対して証明する責任が課せられたとも言えるでしょう。動物実験を主な研究とする国のライフサイエンス関係の予算は、平成17年度で5000億円近くが費やされているのです。国全体で動物実験にどれだけ国の予算が費やされているのか、そしてそれによってどれだけ国民の健康と福祉に還元されているのか、国は費用対効果を評価して国民に説明するべきでしょう(それも利害関係のない第三者が評価するべき)。
日本では具体的にどの施設で、どのような実験が、どのような動物をどのくらいの数使って行われているのか、まず実態を正しく把握するべきです。実態を把握していなければ、どこを基準にして3Rを評価できるというのでしょうか。指針が科学的合理性をうたっているのに反して、現実はこのようなあいまい不合理な状態だというのはとても矛盾しています。
■動物実験を監視する必要性
昨年の動愛法改正から今年の動物実験指針の改正に至るまで、ずっと流れを見てくると、その中で「動物実験反対運動」が過剰に意識されている様子がうかがえます。中には、「動物実験反対運動のプロパガンダに屈してはならない」というアジテーションをさかんに述べる研究者もいます。実験研究者がこれまで取るに足りないとして相手にもしてこなかった「動物実験反対勢力」ですが、これを突如として針小棒大に誇張し、口実にして、反対運動の圧力に屈するなとばかり、動物福祉に関するわずかの前進も阻もうとしています。「少しでも譲歩すれば、もっと大きな譲歩を迫られるから、くい止めなければならない」のだそうです。
このような実験研究者たちは、なぜ世間一般の人々が動物実験に批判的なのか、あるいはやめてほしいと願っているのか理解できず、理解するつもりもないようです。 このような考えの人々が実験機関の中枢を担っている限り、指針の実効性も疑わしく、実験施設が中から改善されていく見込みは期待できそうにありません。そのことは、私たちのように動物の犠牲に心を痛める、何の利害関係もない第三者が、これまで以上に実験施設の中に監視の目をむけていく努力をしていく以外にないということを意味します。
指針ができたからと言って何がどう変わるか見えてこない現状では、今まで以上に、外部から動物実験に対する厳しい目をむけていく必要がありそうです。